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唐王朝の中央政府

2009-11-24 | ソース:

 唐王朝の中央政府は西域各地で漢族と他の民族を別々に管理する制度を実行した。つまり漢族の人が集まり住む伊州、西州、庭州などでは、行政面では中原地区と同じような府、州、県、郷、里の管理制度を採用し、経済面では均田制」(唐王朝の田制)と「租庸調制」(唐王朝の租税制度)を推し進め、軍事面では「府兵制」(唐王朝の軍事制度)を実行した。漢族以外の人が集まり住むところには、「羈縻府州」を設置した。つまり現地の民族首領による行政管理制度を引き続き維持し、彼らに唐王朝の都護、都督、州刺史の称号を与え、以前の習俗に従って所属する人たちを管理するのを許した。同時に亀(グェーズ)、于(ユータン)、疏勒(スゥロ)、碎葉(一度は焉耆であった)で軍事制度を確立した。これは歴史上「安西四鎮」と称されている。

 五代・宋・遼・金時期に、中原地区の諸王朝が統治権を争奪するため西域を顧みる暇がなく、西域にいくつかの地方政権が並存する局面が現れた。そのうちの主なものは、ゴーチャン、カラ汗、ユータンなどの地方政権があり、これらの政権はいずれも中原の諸王朝と密接な関係を保っていた。

 ゴーチャンとカラ汗王朝は、ともに840年漠北の回鶻汗国が滅んだ後、西域に西遷した回鶻人が突厥語を話すその他の諸民族と連合して樹立した地方政権であり、前者はトルファン地区を中心とし、後者は天山南部、中央アジアの河中(Samarkand)などを含めて広大な地区を支配した。

 回鶻人が西域に住みつき、その樹立した地方政権が中原の王朝と密接な関係を保っていたことから、カラ汗王朝の統治者は「桃花石汗」と自称した。つまり「中国の汗」という意味で、自分が中国に属することを示した。1009年、ユータン地区を占領したカラ汗王朝は北宋(960年~1127年)に使臣を派遣して贈り物を献上した。1603年、北宋はカラ汗王朝の可汗を「帰忠保順鱗黒韓王」に封じた。北宋樹立後の3年目に、ゴーチャンの回鶻は北宋に42人の使者を派遣して贈り物を献上した。

 ユータンは塞人の居住地であった。唐王朝以後、ユータンの尉遅王族が執政し、中原地区との往来が密接になり、唐王朝に封じられたことがあるため自らの名字を李と称した。938年、後晋の高祖は張匡、高居誨を使節としてユータンに派遣し、李聖天を「大宝ユータン国王」に封じた。北宋初期に、ユータンの使臣、僧侶がたえず宋朝に貢物を献上した。  

 元朝時期にジンギス汗は天山南北に対する政治的統一を完成した。蒙古汗はまず初めに「ダルガツ」(蒙古の官職名で、鎮守官という意味)、「ベシバリク等処行尚書省」などの軍政管理機構を設立して、西域に対し軍政管理を行った。元王朝は樹立後、西域各地の社会、経済を発展させると同時に、トルファン地区に提刑按察司を設け、その後はまたトルファンなど各地に交鈔提挙司(紙幣印刷機構)と交鈔庫などの機構を設置し、また「ベシバリク元帥府」を設けて同地に派遣する「新附兵」(元朝が捕虜にした南宋の兵士で編成した軍隊)の開墾事務を管理させ、そして軍隊をホータン、チェモなどに派遣して農地開墾に従事させ、ベシバリクに精錬所をつくって「農具を鋳造した」。ウイグル(元王朝は回鶻を「ウイグル」と称した)地区で「ムーを単位として税金を徴収した」。1406年、明朝はハミ衛を設け、地元ハミの氏族首領を各級の官吏に任用し、現地の軍政事務を管理させ、中国と西域との通商ルートの安全を確保し、西域のその他の地区をその支配下においた。